「とがっている」なんて言う傲慢
諸事情により収入が減っているので、古着屋に行く事が出来ず、専らインターネットでファッションについて書いている人(どんな文章がいいのかは後述)を見つけては読む日々を送っている。
大体そういうのはnoteで見つけることが多いのだが、流石に金とフォロワーが絡む媒体なだけあって比較的人に見られる事を念頭に置いた記事が多い。
その中でも自分は特に分析、つまりメディアや過去の作品、類似作品、同年度の傾向から比較した感想を述べている記事を好む。
というよりも、そういうのしか見れなくなっている。
なぜなら、それ以外がキツいのだ、個人的に。
例えばこういうの
今の日本には尖ったブランドはない、あの頃の衝撃はもう取り戻せないのだ
はいはい🙌となる。
よく「もう本物のデザイナー/クチュリエって存在しないよ〜」みたいな趣旨のことを妙に気取った文章(上みたいな)を見るたびにお前は誰なんだよっておかしくなってしまう。
アルマーニとかアライアが言うならわかる。
町の寂れたテーラーが酒飲みながら管を巻いて言うのが本当は1番かっこいい。
が、こんな中途半端にカッコつけた妙ちきりんなぼやきを酒場でもWWDでもない、noteで見ることが1番ダサいしキツい。
「バックボーン関係なく発言できるのがインターネットの利点」だが、それは同時に「バックボーンがあることでカッコよくなるセリフも途端に痛くなる」ということなんだけど、踏み違えた人が定期的に現れる。
いちフリーク、キッズが自分の好きなものを神格化しようとするあまり他のものを貶す構図が最高に傲慢さ溢れている。
だったら変にカッコつけず「今のマルジェラ?クソ、なぜならマルジェラが作ってないから」みたいな方がまだマシ。
大体消費者が尖っている尖っていないを決める特権を持っているという想定からして傲岸を極めていて微笑ましい。
他には
(何か青っぽい色調の写真、家から歩いて数分ぐらいの景色撮ったやつ)
〜〜のシャツ、僕をちょっと特別にさせてくれる気がする。
(謎の行間)
このちょっとが丁度いい
みたいなの。
悪いわけではないが何か精神的にきてしまう。
サークルの新歓に来た、インスタグラマー気取りのやつの投稿を思い出す。
結局何が言いたいのかわからない、強いて言えばかっこよく「見せたい」ものはわかる投稿。
かっこいいと思ったものを素直にそう言えない病気なのだろうか。
上のやつ要するに
かっけえ!何かちょい高そう!
以上だろ。
理屈こねるならもっとちゃんと練り上げた理屈を持ってきて欲しい。
具体的に言うと論文読め。
詩的になったりエモくなるなら文野環のnoteを音読しろ。
あれと比べたら世のインスタグラマーのポストは全て直喩だ。
なぜ自分でもこんなイライラしてるかわからない。
金がないからだろ、なんでわかんねえんだ