レゲエ

ジャマイカは漢字で牙買加と書きます

俺はファッション発信者に何を求めているのか

前回ちょろっと書いたファッションyoutuberについての自己分析をしてみる。

まずそもそもファッションyoutuberを見なくなったのはいつからだったかを思い返すとこの動画はターニングポイントだった気がする。

https://youtu.be/AtdpT0AK4rg

この動画に対してはまあ色々と批判が飛んでいるが今改めて見返すと、ファッションyoutuberの界隈にいる人間としての焦りが発露した結果なんじゃないかと思い始めている。

「突き抜けている」という言葉を使い、それが他のファッションyoutuberに対しての冒涜なんじゃないかと叩かれている訳だが、この突き抜けているという言葉は違う意味を持っているんじゃないかと。

 

さて、自分がこうした界隈を全くチェックしなくなった経緯を振り返ろう。

端的に言うと「自分が欲しい情報でここから得られるものはないな」と判断したからだった。

ファッションyoutuberが発信するコンテンツは大きく分けると「ブランド紹介」「コーデ紹介」「着てみた系」「ファッションについて語る系」になると思う、というか自分が見ていた頃はよくこういった動画をチェックしていた。

 

まずブランド紹介なのだが、はっきり言って今更紹介されても全部知ってる情報だった、その帰結として見なくなった。

正直コムデギャルソンやらマルジェラやらを今更紹介されてもネットや古着屋の店員、過去の雑誌アーカイブや論文から知る事ができる。

加えて彼らの情報は基本的にネットによくある情報の引用が大多数であるし、中には疑問を抱くような言説をそのまま引用している場合がある。

よく取り沙汰されるのは「黒の衝撃」。

ざらっと言うとギャルソン、ヨウジは当時タブーだった黒をモード界に取り入れそれがすげぇみたいな話だ。

が、これに関しては疑問を突きつけている主張が割と散見される。

例えば、安城寿子さんが書いている論文はまさにこれに疑問提起したものでもあるし、当時のフランスメディアの記事をサンプルに黒の衝撃の全体像を明確化しようとしている。

ていうか黒がタブーだったという話はどこから来たのだろうと本当に不思議に思っている、シャネルやディオールバレンシアガが50〜60年代のコレクションでがっつり使ってるじゃん。

黒の衝撃以前のパンクファッション興隆は70年代ごろ、黒という色が反抗の意味合いを持ち始めたのはそのあたりではないかと徳井淑子著の「黒の服飾史」にもあるが、反抗の意味合い=タブー視という説には結びつかないだろう。

蘆田裕史は「ギャルソン・ヨウジの台頭は服飾に物語性を付与するきっかけになった」と主張しているが、むしろそれが近いのではないかと思う。

当時の記事も色ではなくその形状に対して印象的な感想を残しているので、黒の衝撃は少し過大評価されすぎなのではないか。

まあこんな風に結構疑問視される風説を取り上げて喧伝しているあたりで、知識のアップデートが無い世界なんだなと半ば悟ったところがある。

あともう一つの理由が服飾史の歴史的コンテクストを話せる人間がほぼいないことだ。

自分が1番知りたいのは「このデザインは服飾史においてどんな疑問提起をしているのか」なのだが、これにヒントを与えてくれるのは間違いなくファッション批評書や論文、出版アーカイブだった。

西谷真理子さんのように当時の様子を知っている方による記述ならば多少意義があると思うが…。

またマルジェラも個人的には興味があるデザイナーなのだが(着たいと思ったことは一度もない)、彼のデザインの革新性について語れる人は少なくともyoutubeでは見かけていない。

マルジェラ立ち上げからずっと購入している方がチャンネルを開設していた気がするが、この方ぐらいなんじゃないだろうか。

 

余談だがwe margielaを見てなおマルジェラシンパ(というよりはメゾン・マルジェラシンパ)になれる人はなぜそう思えるのか、という疑問がずっとある。

あの映画が暗に「マルジェラを潰したのは消費者が神の如く振る舞うようマルジェラに強制したからでもあるんだぞ」と突きつけているように思えたのだ。

 

まあこのように伝統や歴史があるブランド紹介は総じて月並みなものになりやすい。

では新興のブランドはどうかというとこれも正直なところyoutubeに求める必要性がない。

正直四大コレクションと東コレ、その他マイナーファッションウィークを適当に見ていれば自分の食指が反応するブランドはいくつか見つけられる。

もっと手っ取り早いのであればITS、ANDAM、LVMH、イェール、ウールマークのような世界的プライズのファイナリストを見るとすぐに俗に言う「アツいブランド」なるものが見つかる。

このプライズに選ばれたからと言って将来が確約されるわけではないのだが(トーマス・テイトの例がそれを如実に物語っている)。

つまるところ、別に自分で探す方が早いから、という結論に落ち着いてしまう。

 

「コーデ紹介」「着てみた系」も正直非常にどうでもいい。

これもコレクション見ていればヒントみたいなのはもらえるし、着てみた系も結局は百聞は一見に如かずに落ち着くなぁ、という訳だ。

 

そして「語る系」もだが、これも自分の求めているものはないという結論に至る。

まず理論や社会的な意味だとかファッション業界の問題点だとかはその道の専門家が書いている書籍の方が当然だが詳しい。

ブランド紹介とも関連するが、日本語で検索すると本当にありきたりな情報しか並べていないアフィリエイト寸前のサイトが出てくる。

が、英語で検索すればUK版WWDやVOGUEによるフォーカスやインタビューが出てくる(デムナのインタビューは日本語版では最近全く見かけていないが、海外サイトを探すと意外に簡単に出て来たりする)。

そして先述したがファッションyoutuber界は非常に情報のアップデートが遅い。

その状態で話す理論は理論にならない場合がほとんどだ。

先入観や思い込みが先に行く話は単なる感想やお気持ちに過ぎない。

自分はそうではない、もっと批評的な意見や自身の好みの批評的分析が聞きたかった、なので専門書や海外雑誌に自然と興味が移った。

ただそれだけの話なのだ。

 

ここで先の「突き抜けた」発言に戻るのだが、この言葉には今のファッションyoutuber界のコンテンツに深みがないのではないか、という焦りに聞こえるのだ。

深みがない、というのは知識が無いという意味ではない。

むしろ知識云々は関係ないと思う。

好みの自己分析なんじゃないだろうか。

どのようにファッション発信に取り組んでいるかは問題ではない。

ただ、それぞれがファッションというものに対してどれほど向き合う事ができ、それに疑問を抱いて考えを明確にできるのか、それについての焦りなんじゃないかと勝手に邪推している。

 

セントラル・セント・マーチンズのデザイン教育法は着てほしい人を出来る限り明確に思い描くこと、アントワープのデザイン教育法はデッサンをし続けることで自分がデザインしたいものを明確にし続けることだとどこかで見たが、ファッションを受け取る個々人(自分も含めて)それが求められているのかもしれない。

 

ちなみに全くの余談だが、最近デムナがマルジェラに勤め始める前に運営していた彼のシグネチャーコレクションのルックが掲載されている雑誌を教えてもらった。

本当にありがたい、割と探したつもりなのだが全然出てこなかったので。