「とがっている」なんて言う傲慢
諸事情により収入が減っているので、古着屋に行く事が出来ず、専らインターネットでファッションについて書いている人(どんな文章がいいのかは後述)を見つけては読む日々を送っている。
大体そういうのはnoteで見つけることが多いのだが、流石に金とフォロワーが絡む媒体なだけあって比較的人に見られる事を念頭に置いた記事が多い。
その中でも自分は特に分析、つまりメディアや過去の作品、類似作品、同年度の傾向から比較した感想を述べている記事を好む。
というよりも、そういうのしか見れなくなっている。
なぜなら、それ以外がキツいのだ、個人的に。
例えばこういうの
今の日本には尖ったブランドはない、あの頃の衝撃はもう取り戻せないのだ
はいはい🙌となる。
よく「もう本物のデザイナー/クチュリエって存在しないよ〜」みたいな趣旨のことを妙に気取った文章(上みたいな)を見るたびにお前は誰なんだよっておかしくなってしまう。
アルマーニとかアライアが言うならわかる。
町の寂れたテーラーが酒飲みながら管を巻いて言うのが本当は1番かっこいい。
が、こんな中途半端にカッコつけた妙ちきりんなぼやきを酒場でもWWDでもない、noteで見ることが1番ダサいしキツい。
「バックボーン関係なく発言できるのがインターネットの利点」だが、それは同時に「バックボーンがあることでカッコよくなるセリフも途端に痛くなる」ということなんだけど、踏み違えた人が定期的に現れる。
いちフリーク、キッズが自分の好きなものを神格化しようとするあまり他のものを貶す構図が最高に傲慢さ溢れている。
だったら変にカッコつけず「今のマルジェラ?クソ、なぜならマルジェラが作ってないから」みたいな方がまだマシ。
大体消費者が尖っている尖っていないを決める特権を持っているという想定からして傲岸を極めていて微笑ましい。
他には
(何か青っぽい色調の写真、家から歩いて数分ぐらいの景色撮ったやつ)
〜〜のシャツ、僕をちょっと特別にさせてくれる気がする。
(謎の行間)
このちょっとが丁度いい
みたいなの。
悪いわけではないが何か精神的にきてしまう。
サークルの新歓に来た、インスタグラマー気取りのやつの投稿を思い出す。
結局何が言いたいのかわからない、強いて言えばかっこよく「見せたい」ものはわかる投稿。
かっこいいと思ったものを素直にそう言えない病気なのだろうか。
上のやつ要するに
かっけえ!何かちょい高そう!
以上だろ。
理屈こねるならもっとちゃんと練り上げた理屈を持ってきて欲しい。
具体的に言うと論文読め。
詩的になったりエモくなるなら文野環のnoteを音読しろ。
あれと比べたら世のインスタグラマーのポストは全て直喩だ。
なぜ自分でもこんなイライラしてるかわからない。
金がないからだろ、なんでわかんねえんだ
Quoraという死なない程度にキツいSNSをやっている2
地獄?(賞賛ばかりのコメント欄も含めて)
2020/8/1追記
最近Quoraすら見ることがきつくなってきた。
どうやら人々の意見が暴走することに匿名性はさほど重要な要素じゃないらしい。
自分のイデオロギーやべき論を突きつける人、回答してくれる人が有難いのだから文句をいちいち言うなと曰う人、ひたすらに読みにくかったり別に求められていないタイミングで自称「大喜利」回答をする人。
ただ知識自慢がしたいだけなのかなぁと思うことが多くなってきた。
もちろん、自分好みの人々もいる(統計や参考文献を引用したことを明らかにしつつ、あくまで「そのように考えられる」という論調で語り続けられる人、批判に対しても初めに受け入れる態勢が整っている人)。
でも、結局回答に評価という形で計量化できる支持率が明示される以上、回答ごとの「説得力」が発生する。
Quoraというコミュニティ内で受け入れられやすい論陣を張れば評価される、ここでもポピュリズム的な雰囲気が勝手に醸成されていく。
自分はQuoraに向いていないのかもしれない、回答に対していちいち気に入らないことが噴出しやすく、それを表にできずこうした目につかないところで吐き出すしかできない小物だ。
それでもこのSNSを見ることがやめられない。
Twitterを追放され、インスタは感情的な投稿が目立つ以上、形式的にでも理屈に則った投稿が見受けられなおかつ扱う話題が豊富なフィールドはここしかない。
Quoraを十数分見終えたあとはそこそこの疲労感がやってくる。
Twitterよりも凝縮され、頑健な思想が転がっている。
感情論を骨組みに、論理を装わせた投稿が目に入ってくる。
それを見るのが最近は辛い。
でも結局やめられない。
言い訳がないと服着れないのか?
別に自分が勝手にムカついているだけだ。
以下はただのオタクのどうしょうもない吐き気を書いているだけだ。
それを了承して欲しい。
noteというサイトには割とファッション関係のブログが多く集まる事が多い。
色々と考察や解釈を調べるうちに、noteに投稿している人の主張や意見を見てなるほど〜となることが多い。
noeonさん(だったか、うろ覚えだ)は結構好きで、難しい内容だが完全にわからないわけではない塩梅の文章をあれこれ思い出しながら読んでいくのは好きだったりする。
あとはちゃも吉さんだっただろうか、リックオウエンスに狂い、アパレル業界で働く人の諧謔に満ちた語り口は純粋に面白い。
そんなこんなでファッション関係のトピックを見るならnoteがいいのかなぁなんて思いながら、note内で「マルジェラ」なんて検索してみた。
マルジェラに関して何らかの事を書いている人を探すためだったのだが、商品紹介みたいな愚にもつかない(個人の意見です)が一斉に目に飛び込んできた。
あークソだなとか思いながらスクロールしていると服飾専門学生らしき人が書いている記事を見つけた。
同年代の人間がファッションについて何らかを述べるのはちょっと食指が動かされる。
読んでみた。で、今に至る。
その記事には何が書いてあったのか。
箇条書きにすると、
・人はどうやって買う服を選ぶのか
・(例としてマルジェラが挙げられ、)ある人はマルジェラに価値の判断の大部分を阿ている、もうある人はそうではない点に判断基準を委ねている(ここら辺の話を妙に変な言葉を作り出して説明していた気がする)
・自分は上品さが判断基準の大部分を占めている
という。
捻くれた自分は、「上品さ」ねぇ、なんて思ってしまった。
揚げ足を取るようだが、上品さで服を選んでいるのだとしたら余程高価格帯の服しか買ったことがないのだろう。
それか、選んだ服に対して上品である理由を自分に対して矛盾を突きつけずにちゃんと説明することができるのだろう。
だとしたら相当お目が高い。その上美意識と美に対する造詣が高くていらっしゃる。さすが服飾学生だ。
ただ、メタな話をすると決してそうではないだろう。
インターネットでより多くの選択肢が浮上するようになった。
ただ、それを選ぶかと言ったら話は別。
自分の持つ資本と服の価格を鑑みて安い方を取るということもあるだろう。
その場合は、どう言い訳しようと「上品さ」よりも「価格」が天秤に載せた上で後者に傾いたと言うしかない。
歪んでいる自分は、「上品さ」という言葉にこんな難癖を心の中でつけていた。
そもそも「上品さ」なんていう抽象的なものを他人に理解されている前提でよく話を進めようなんて思ったものだ。
時代や環境が違えば簡単に捉え方や思い描くものが変わるものをあたかも一般的理解と考えて話すところにイヤな感じを持ってしまった。
何というか、「自分の中での上品さを明確にするのがデザインなんじゃないの?知らんけど」って感じだ。
それぞれの価値判断は違うみたいな話を余計に小難しくしていたのは経済学の中の価値論と呼ばれる分野の本でも読めば何とかなる気がする(道徳感情論なんかはファッションに置き換えると腑に落ちるようなことが多い、特に是認と効用に関する章)。
ただ、上品さが大事みたいな話は「随分あやふやでどうにでもなる判断基準だなぁ」と思ってしまった。
このタイトルはそういうところについての感情なのだが、あまり適していないかもしれない。
ただ、何となくファッションに関して語りたがる大学生(自分もだが)を見るとひねた自分が現れる。
ファッションオタクはダルい。
そしてキモい。
装いなんていう比較的手軽なもので自己主張をしようなんて考える傲岸な人種とすら思っている。
今日も人のことを気にせずにいられたらといつも思いながら、他人へキョロキョロしながら服を着ている。
Quoraという死なない程度にキツいSNSをやっている
Quoraというヤフー知恵袋の上位互換みたいなSNSをやり始めて二ヶ月ぐらいが経つ。
スクロールするだけであれやこれやの豆知識だとか解釈だとかが流れてくるので結構楽なサービスだ。
加えて原則実名で参加しなくてはならないルールのおかげかTwitterみたいな地獄のような罵詈雑言だとか、根拠を3秒前に作ったかのような放言も無いので比較的安心感が保てるSNSなんじゃないかと思う。
残念なのはえっちなイラストがスクロールしても流れてこないことだ。Twitter運営は近いうちに一階の鉄筋が突然溶ける呪いに掛かればいいのに。
ただ、欠点の無いものは得てしてこの世には存在しないもので、キレる程度では無いんだけどう〜んみたいな投稿がたまに目に入ったりする。
今回の話題では無いのだが、それこそ相手から指摘が飛んだ時に「話聞いてました?w」みたいな返信を飛ばす人だとか(議論の返しにこんな台詞を選ぶ奴は自分の話を聞かせることにしか興味がないので、耳から常に緑色の汁が出てしまえばいいのにと思っている)、思い込みをあたかも常識であるかのように語る人(こういう人にとって宗教の小間使いは天職だろうなぁ)だとかがいたりする。
論拠や参考を示さないで話す人は一体何なんだ?余程周りから真面目に聞く耳持たれてないのか、周りが善人極めすぎてる人々ばかりなのか。
後者は自分が鵜呑みにしないでいれば良いだけなので放置、前者は見かけたら直前の回答が優れていても低評価にぶち込んでいる、不快だから。
それはそうとして、さっき何気なく目に入った回答にアレルギー反応が出たので忘れないうちに留めておこう。
これだ。
うっわ最近モヤモヤしてたことがこの中に入ってる!と思ったのですぐ共有したいと思った次第だ。
ちなみに上が切れているが、質問文は「Tシャツのポケットは何であるの?」的なものだ。
それの回答が、これ。
ちょっと無理だこれは…となってしまった。
何が無理なのか、要素を抽出してみたので順を追って見てみよう。
1.Qに対するAは?
これが1番胸焼けするポイント。
質問文はさっきも確認した通り、
「Tシャツのポケットは何であるの?」
これに対してのっけから
「サムシェパードです」
は?
急にどうしたんだ?
思わず笑ってしまった。
マックに行って
「お飲み物は何になさいますか?」
と聞かれて
「バレンシアガの新作です」
なんて答える奴いるか?それとやってること殆ど同じだぞ。
実はアンサー部分はあるにはある。
が、それは6文目の「元々は〜」からだ。
一目で「あっ!ここが問いに対しての答えだ!」となった人は現代文の権化か何かだろうか、少なくとも私はそうではないので少し時間を置かないとわからないかった。
せめて1番目に書けよ、サンドウィッチ構造にする必要あるか?
2.自分語りが長すぎる
マジでキツい。
この回答だけでこの人が
・プリントTシャツを選びがちであること
・その理由は無地のTシャツはハードルが高いと思っていること
・VANジャケットの輸入物を着ていたこと
・タバコを吸った経験がないこと
・洗濯作業の時、鍵を入れるのに便利であること
・3月から毎日、寒い時には重ね着してまで着るヘビーユーザーであること
・サムシェパードとポケット付きTシャツで何らかを競い合っていること、もしくは一方的にライバル視していること
がわかる。
わかりたくねえんだよな。
さっきのマックの例えで行くと、金を払うフェーズで店員側は円で出して欲しいのに何故かユーロ・ドル・フラン・ルーブルなどの海外硬貨をめっちゃ出して来られる感覚。
いらねえだろ、あとお前が海外の銭を持ってることはわかったよ、でも別に今お前のことわかろうと思ってないからここは何卒懐に収めてくれや、となるだろ。
Tシャツから派生するトリビアならまだ聞くんだけど、全部パーソナルな情報だしなぁ…となってしまう。
結論、いらねえ。
3.文の構成が最悪
正直結論から最初に書いてくれないあたりでただの感情垂れ流し文章くん(善く言うと随筆、エッセイ)なのだが、ここからここまでがどういうパートにあたるのかという情報が不足している。
つまりは、
「〜〜といった理由で作られたようです(結論)また、〜〜という見せ方ができるという効果があると思います(別意見の提示)例えば〜〜です(例示、サムシェパードはここにあたる)〜〜ですね(気の利いた締めの文章)」
となればすっきりとしていて非常に私好みになる、のだが。
とっ散らかっていてどこが一般的事実でどこが主観的な自論なのか、どこが意見の提示なのかどこが例示にあたるのか、などがわからなくなっている。
取り敢えず結論から書こうや…。
4.もっと控えめに持論を主張してくれ
「Tシャツのポケットが効いていると思いませんか?」
知るか。
5.コメント欄がマジで受け付けない
スクショには映してないが、このコメント欄はこんなんだった。
「サムシェパードよりもかっこいいくせに謙虚なんだから❤️」
「サムシェパード、〜〜でもイケてた❣️」
サムシェパードの話にいつからなったんだよ。
TシャツのTも、ポケットのポも出てこない。
代わりに出てきたのは謎のお世辞と赤い絵文字。
コメント欄見た時、そうか…別にポケットとかはどうでも良くてただサムシェパードの話しながらB級ドラマに出てきそうな一場面を再現するコーナーだったのか…と1人で納得しそうになった。
このノリについていけない私がダメなのか?
もうわからないよ…正義ってなんだ…?資本主義は悪なのか…?(支離滅裂な思考)
正直好きなように回答すればいいと思う、見る側がスルーしたらすればいいのだから。
でも、仮にも知識を集めるとか学歴やら職歴やらを書く必要があるみたいな比較的厳格に回答に責任を求めるサービスなら、もう少し回答の仕方に工夫があっても良いんじゃないのともやついたものを抱えてしまう。
それに、極端に言ってしまうと「頭が良い」とされる人々がよく回答しがちなので、こんなことを言うと何らかの言い訳じみた反論をイヤ〜〜な言い回しを使ってねちっこくあげつらうんだろうなぁと。
結局はどのSNS使っても自分はROM専になるんだなぁと気付いた今日だった。
早くTwitterで死ぬほどいかがわしいツイートを見てえよ
俺はファッション発信者に何を求めているのか
前回ちょろっと書いたファッションyoutuberについての自己分析をしてみる。
まずそもそもファッションyoutuberを見なくなったのはいつからだったかを思い返すとこの動画はターニングポイントだった気がする。
この動画に対してはまあ色々と批判が飛んでいるが今改めて見返すと、ファッションyoutuberの界隈にいる人間としての焦りが発露した結果なんじゃないかと思い始めている。
「突き抜けている」という言葉を使い、それが他のファッションyoutuberに対しての冒涜なんじゃないかと叩かれている訳だが、この突き抜けているという言葉は違う意味を持っているんじゃないかと。
さて、自分がこうした界隈を全くチェックしなくなった経緯を振り返ろう。
端的に言うと「自分が欲しい情報でここから得られるものはないな」と判断したからだった。
ファッションyoutuberが発信するコンテンツは大きく分けると「ブランド紹介」「コーデ紹介」「着てみた系」「ファッションについて語る系」になると思う、というか自分が見ていた頃はよくこういった動画をチェックしていた。
まずブランド紹介なのだが、はっきり言って今更紹介されても全部知ってる情報だった、その帰結として見なくなった。
正直コムデギャルソンやらマルジェラやらを今更紹介されてもネットや古着屋の店員、過去の雑誌アーカイブや論文から知る事ができる。
加えて彼らの情報は基本的にネットによくある情報の引用が大多数であるし、中には疑問を抱くような言説をそのまま引用している場合がある。
よく取り沙汰されるのは「黒の衝撃」。
ざらっと言うとギャルソン、ヨウジは当時タブーだった黒をモード界に取り入れそれがすげぇみたいな話だ。
が、これに関しては疑問を突きつけている主張が割と散見される。
例えば、安城寿子さんが書いている論文はまさにこれに疑問提起したものでもあるし、当時のフランスメディアの記事をサンプルに黒の衝撃の全体像を明確化しようとしている。
ていうか黒がタブーだったという話はどこから来たのだろうと本当に不思議に思っている、シャネルやディオール、バレンシアガが50〜60年代のコレクションでがっつり使ってるじゃん。
黒の衝撃以前のパンクファッション興隆は70年代ごろ、黒という色が反抗の意味合いを持ち始めたのはそのあたりではないかと徳井淑子著の「黒の服飾史」にもあるが、反抗の意味合い=タブー視という説には結びつかないだろう。
蘆田裕史は「ギャルソン・ヨウジの台頭は服飾に物語性を付与するきっかけになった」と主張しているが、むしろそれが近いのではないかと思う。
当時の記事も色ではなくその形状に対して印象的な感想を残しているので、黒の衝撃は少し過大評価されすぎなのではないか。
まあこんな風に結構疑問視される風説を取り上げて喧伝しているあたりで、知識のアップデートが無い世界なんだなと半ば悟ったところがある。
あともう一つの理由が服飾史の歴史的コンテクストを話せる人間がほぼいないことだ。
自分が1番知りたいのは「このデザインは服飾史においてどんな疑問提起をしているのか」なのだが、これにヒントを与えてくれるのは間違いなくファッション批評書や論文、出版アーカイブだった。
西谷真理子さんのように当時の様子を知っている方による記述ならば多少意義があると思うが…。
またマルジェラも個人的には興味があるデザイナーなのだが(着たいと思ったことは一度もない)、彼のデザインの革新性について語れる人は少なくともyoutubeでは見かけていない。
マルジェラ立ち上げからずっと購入している方がチャンネルを開設していた気がするが、この方ぐらいなんじゃないだろうか。
余談だがwe margielaを見てなおマルジェラシンパ(というよりはメゾン・マルジェラシンパ)になれる人はなぜそう思えるのか、という疑問がずっとある。
あの映画が暗に「マルジェラを潰したのは消費者が神の如く振る舞うようマルジェラに強制したからでもあるんだぞ」と突きつけているように思えたのだ。
まあこのように伝統や歴史があるブランド紹介は総じて月並みなものになりやすい。
では新興のブランドはどうかというとこれも正直なところyoutubeに求める必要性がない。
正直四大コレクションと東コレ、その他マイナーファッションウィークを適当に見ていれば自分の食指が反応するブランドはいくつか見つけられる。
もっと手っ取り早いのであればITS、ANDAM、LVMH、イェール、ウールマークのような世界的プライズのファイナリストを見るとすぐに俗に言う「アツいブランド」なるものが見つかる。
このプライズに選ばれたからと言って将来が確約されるわけではないのだが(トーマス・テイトの例がそれを如実に物語っている)。
つまるところ、別に自分で探す方が早いから、という結論に落ち着いてしまう。
「コーデ紹介」「着てみた系」も正直非常にどうでもいい。
これもコレクション見ていればヒントみたいなのはもらえるし、着てみた系も結局は百聞は一見に如かずに落ち着くなぁ、という訳だ。
そして「語る系」もだが、これも自分の求めているものはないという結論に至る。
まず理論や社会的な意味だとかファッション業界の問題点だとかはその道の専門家が書いている書籍の方が当然だが詳しい。
ブランド紹介とも関連するが、日本語で検索すると本当にありきたりな情報しか並べていないアフィリエイト寸前のサイトが出てくる。
が、英語で検索すればUK版WWDやVOGUEによるフォーカスやインタビューが出てくる(デムナのインタビューは日本語版では最近全く見かけていないが、海外サイトを探すと意外に簡単に出て来たりする)。
そして先述したがファッションyoutuber界は非常に情報のアップデートが遅い。
その状態で話す理論は理論にならない場合がほとんどだ。
先入観や思い込みが先に行く話は単なる感想やお気持ちに過ぎない。
自分はそうではない、もっと批評的な意見や自身の好みの批評的分析が聞きたかった、なので専門書や海外雑誌に自然と興味が移った。
ただそれだけの話なのだ。
ここで先の「突き抜けた」発言に戻るのだが、この言葉には今のファッションyoutuber界のコンテンツに深みがないのではないか、という焦りに聞こえるのだ。
深みがない、というのは知識が無いという意味ではない。
むしろ知識云々は関係ないと思う。
好みの自己分析なんじゃないだろうか。
どのようにファッション発信に取り組んでいるかは問題ではない。
ただ、それぞれがファッションというものに対してどれほど向き合う事ができ、それに疑問を抱いて考えを明確にできるのか、それについての焦りなんじゃないかと勝手に邪推している。
セントラル・セント・マーチンズのデザイン教育法は着てほしい人を出来る限り明確に思い描くこと、アントワープのデザイン教育法はデッサンをし続けることで自分がデザインしたいものを明確にし続けることだとどこかで見たが、ファッションを受け取る個々人(自分も含めて)それが求められているのかもしれない。
ちなみに全くの余談だが、最近デムナがマルジェラに勤め始める前に運営していた彼のシグネチャーコレクションのルックが掲載されている雑誌を教えてもらった。
本当にありがたい、割と探したつもりなのだが全然出てこなかったので。
鈴鹿詩子を見て腐女子への憧れを思い出しつつある
Twitterから永久追放されて半月が経った。
クソ鳥の運営に対して「Get my account unlocked,bitch」と日夜メールを送っているのだがガン無視され続けている。
俺の鍵垢は目敏く見つける癖に抗議は見ぬふりを決め込むなんて企業として頭おかしいのではないだろうか。
ただTwitterを見なくなった代わりに本を読むようになったりするようになったので心なしか精神的な健康が良くなった気がする。
アウトプットの場であったTwitterに代わってブログでもやろうかと思いはするのだがいかんせん文章を書くのが億劫だもんで、前回から更新期間がまた空きそうな気がしていた。
そんな時に思わぬものにどハマりしてしまった。
vtuberだった。
もちろん、彼らの存在自体は結構前から知ってはいた。
自分の知り合いにも数人vtuberが好きな人間がいたのだが、自分がハマることはないだろうなぁなんて思っていた。
そもそもyoutuberと呼ばれる人々自体にそこまで食指が動いた経験がなかった。
東海オンエアやしばなん(?)だったか、みたいなのは名前を耳にしたことはあるが、正直言って何が面白いのかが一切わからない。
服が好きなのでそれ関連のyoutuberも見たことがあるのだが、知識のインプットが非常に遅いと感じて以来全く見なくなった。
服飾系のyoutuberに関して思うことは非常に多いが今度の機会に書くとして、話を戻そう。
ある日、偶然にも「最低すぎる美少女ゲームのヒロイン」なる動画を見てみたら、一気にその世界に引き込まれた。
なんじゃこのめちゃくちゃに身を張った動画を出してる奴はと思って他の動画を見たら「どうぶつの森にゲイハーレムを作る」だとか「無垢な猫に淫語を吹き込む」だとか「マイクラにラブホを作る」のようなしょうもない内容ばかりだった。
そして、どうしようも無い下ネタが大好きな自分は見事にそれらに笑わされて、鈴鹿詩子にハマることとなった。
彼女の実況や配信を見るたびに今まで関わってきた腐女子の人々を思い出す。
タイトルにも挙げている通り、自分は腐女子に対して憧れに近いような感情を持っている。
彼女達が主に焦点にするのは言わずもがな男性同士の恋愛(BL)だが、腐女子の間ではよくバトルが発生する。
受け攻め論争と自分は読んでいるが主従関係に重きを置く彼女達はたとえ同一人物間の恋愛だろうが主従が異なればすぐに袂を分かつ。
「ABとBAというのは根本的に違うものだから」と言われた事を未だに覚えている。
腐女子への憧れと言ったが、こういったこだわりを持てるという事自体がまさにそうだった。
自分のオタク遍歴を思い返した時、あくまでも「人」や「もの」を深く掘り下げようとする傾向がよくある。
1番顕著に自覚したのはアイマスにハマった時だったかもしれない、あれを歌って欲しい、あんな服を着て欲しい、というあくまでキャラクター性に対しての要求や理想が先に立つことがよくあった。
そんなこともあってvtuberには距離を置いていた。
双方向性が比較的強い配信スタイルだからこそ、こうあって欲しいという欲望が先に立つ人間はあまり深入りしないほうが良い気がした。
ただ、鈴鹿詩子に対してはある種安心感を以て見ることができる。
これをなんと言えば良いのかはわからないが、「強い」のだ。
視聴者がちょっとやそっとの要求をするよりも彼女から自然に出てくるものの方が面白いかもしれないと思わせてくる強さがある。
それを構成する一つは確実に「腐女子カルチャーというよく知られているようで実はよくわからない文化」というバックボーンがあると思う。
オタク文化の中でもクィアなBLをターゲットにしていたから、という理由もあって閉鎖的になっていたという背景もあるだろうが、よくわからない理由のもう一つがマジョリティである男性オタクとの着眼点の違いだと思う。
男性オタクの目線はよく言われるように「萌え」に代表される個人は送られる眼差しだったが、腐女子が送る眼差しは人と人同士の関係性に焦点が合わさる。
ABとBAは根本的に違うというのはそういうことなのだろう、構成要素は同じでもどちらが主従かで大きく内容が変わるわけだから。
ただ、そうした腐女子流の眼差しは一昔前はあまり表出してこなかったように感じる。
2010年代は腐女子的オタク層が一気に表へ出てきた時代だと個人的には思っているのだが、鈴鹿詩子はそれより以前からの腐女子(腐女子という言葉すら根付いていなかった頃)なだけあって相当性癖が濃縮されている。
閉鎖的なコミュニティは互いが互いを研磨し合い、ニッチになりがちだが801板もそんな具合に進化していったのだろう。
自分の知る腐女子もこれに近かった、流石に801板には住み着いていないものの、ひっそりと狭いコミュニティを形成しそこで濃縮された性癖を解放していた。
時にTwitterで発狂したり、時に深刻な顔をして「この世の終わりみたいな性癖していやがる…」だとか呟いたり行動や思考が兎角面白かった。
腐女子に感じた、すべてを包み込む性癖の大らかさ、関係性に対して激論を交わせる自我の強さ、そして性癖への正直さと明確さをそっくりそのまま鈴鹿詩子に見出している。
間も無く登録者数が30万人に達しようとしているが、ここまでの支持を得られるのは同じ腐女子からの共感なのか、それとも男性オタクが自分と全く違うものを見た面白さの現れなのかはわからないがこの先どこまで腐女子の生態が一つのコンテンツとして興味を引くことができるのかを遠巻きながら観察している。
本当はここら辺で終わろうと思ったが、最近にじさんじの配信者に色々ハマりつつあるので、以下は考えが散らばったメモ程度の文章になる。
・鈴鹿詩子
本題にも挙げた腐女子故の力強さが武器だが、もう一つの武器は自然な撮れ高生成力の高さだと思う。最低すぎる美少女ゲームのヒロインシリーズもそうだが、彼女の配信で面白くなる時はシンプルな捻りで他が真似できないような独自性を獲得することが多い。
例えば、ホラーゲーム配信がそれだ。
ホラーゲーム実況の基本フォーマットは実況者が視聴者の代わりに怖がったりビビりながらゲームを進行していくのが普通だが、鈴鹿詩子の場合そもそもほとんどビビることがないため視聴者は彼女と一緒に怖がるという体験がない。その代わりにvtuberらしい双方向性を活かして視聴者が鈴鹿詩子へ突っ込むという構図が出来上がり、それが鈴鹿詩子ならではの面白さは発展している。ビビらないだけならまだしも、ゲーム中のイベントをガン無視しながらリアルに起こったトラウマ体験を話す、笑う、鼻歌を歌うといった行動をとるので視聴者は彼女ではなくゲーム側に肩入れし始める。
つまり、鈴鹿詩子はホラーゲームを実況(実際の状況を説明するという意味)せずにプレイすることで逆に面白くしている。
にじさんじ界隈でホラーゲームが流行った時も彼女だけ独自のスタイルを生み出して亜流のコンテンツを生み出していったように思う。
あとこの人は男のオタクムーブ(俗に言う童貞ムーブ)もかなり"わかってるなぁ"と思わせるもので、男性からの評価を得ているのはここだろうなと感じている。
そういう意味で消費されるvtuberではなくあくまで視聴者と同じ目線を持った配信者としての面も維持できるんだろうなぁと思ったりする。
・矢車りね
私は個人的に鬼才と呼んでいる。
彼女の配信は一言で言うとカテゴライズができない。
世界観と呼ぶには即興すぎるトークと雑談と呼ぶにはオチまでの展開がよく出来すぎている話、マイクラスキンなど発想がいつも斜め上なのは本当に凄まじい、できれば復帰して欲しい。
ジョー・力一の項を書いてて思ったが、妙に既視感があると思った、電気グルーヴの番組だ。
・エリー・コニファー
ここまで世界観を丹念に仕上げたvtuberは存在しなかったかもしれないし、実況という素が出る事をある程度織り込み済みにしたフィールドでもなお世界を引き継げる構成力は素晴らしいの一言に尽きる。
アサシンクリードをやってなぜか実況の空気に齟齬が生じない、絶妙なバランスを保っている。
・黛灰
凸待ち配信やにじさんじwiki配信が有名だが、彼の本当の強さは、にじさんじ内でも稀な他人のアクをうまく引き出せるところにあると思う。
緑仙と似たポジションのようでもあるが、緑仙がにじさんじをマクロ的に捉えた配信を得意とするのに対して、黛灰はミクロ的に捉えたフォーカスを上手くやる印象。
ラジオみたいな誰か一人をゲストに招いてその人の深掘りをする動画があれば絶対見ると思う。
・リゼ・ヘルエスタ
話がもたつく事がない。
地味だがかなりテクニックのいる事をさらっとやっているなぁと少し見た印象だがそう感じた。
もたつく、というのは話だけでなくリアクションも含めてなのだが基本的に月並みな感想を残す事があまりない。
個人的に月ノ美兎と張れるラジオ適正の持ち主だと思っている。
・ジョー・力一
初めて見たのは電気グルーヴのshangri-laを1人で歌うみたいな動画だったが、その時の感想は「山下達郎みたいなことしてんな」だった。
他にもロリ返りした回なども見たが、総じての感想は「声に関する芸が非常に器用」。
トークが有名らしいがまだちゃんと聞いてない。
あと電気グルーヴ布教のためにもこれからも歌ってほしい。
最近見始めたばかりなので今かじり始めた程度の人もいる(樋口楓やイブラヒム、叶、チャイカ、ギバラなど気になる人は多い)がここら辺で。
詩子おねえさん赤い公園歌ってくれないかなぁ…声質的に似合うと思うんだよな
「見た目通り音楽が好き」という哲学的な命題
コロナのあれこれで大学の講義がオンラインになるなどしましたが世の人々はいかがお過ごしなのだろうか。
私はバイトが消えたがadobeの年間契約のアレで金が割と持ってかれたり、顔に肉がついたり、親との関係性がこじれたりとしているけれでも元気です。
大学のオンライン講義が始まりもう二週間ほど経つが、正直コロナ収束してもこれでいいなと思っている。
何しろ起きて30秒でもう授業を受ける準備が整う、講師が話しているのを横目にuber eatsを頼んだりうどんをクソうるさくすすったり、倍速で再生することにより「この講義の生殺与奪は俺が握っている」という優越感に浸るなどできる最高の環境が整ってしまったからだ。
理想の授業システムは2週間に一度大学に行く日がある程度のカリキュラムを組んでくれると適度に外出できて良い、是非そうして欲しい。
ただ語学は対面でやらせて欲しい、zoomでロシア語は無理だ、これは確実にそう、なぜなら対面でも無理だから。
教授によってはオンラインに慣れておらず色々と学生が不便を被ってるなんて話を聞くが少なくとも私の場合は教授がオンラインネイティブばかりでとても喜ばしい。
もう少し疎くても良い。提出ファイルの形式を指定しないでくれ、俺にはわからない。
そんな教授の講義は例年とあまり変わらない構成で進められるらしく、初回に自己紹介を提出するよう求められた。
これはその後に何度か課される相互評価課題のテストワークらしく、自動で振り分けられた班内にて生徒同士が評価を行う。
さっさと名前と学年、学科を述べ、自分語りを一切除いたミニマリズム自己紹介を提出した数日後。
名前と顔を一切覚えることなく惰性で評価(点数を押すだけ)をしていると、こんなものを出している人に気がついた
『〜〜学科の〜〜です!見ての通り音楽が好きです!』
その後20分ぐらい彼をガン見した。
細かく、写真を拡大し、彼自身だけではなく周りの部屋、アングルなどにも気を配り彼の言わんとする思惟を汲み取ろうとした。
暖色系の灯り、やや下から撮られた自撮り、染めてから時間がやや経過したであろうくすんだ金髪、黒のマスク(個人的にこのマスクをする人種の80%はシャバいセンスの持ち主だと思っている、残り20%はオタク)、ゲーミングチェアにも見える椅子、など。
ありとあらゆる要素に目を光らせ、「見ての通り」から「音楽が好き」であることを導き出そうとした。
そもそも音楽が好きとはどういう定義によるのだろう。
聞く方か?それとも演奏する方か?作曲、作詞の場合もある。編曲やリミックスのようなアレンジかもしれない。それとも音楽を学術的に捉えた上で表現技法に共通する要素を抽出する事が好きなのかもしれない、いやそれとも踊る事か?
音楽が好きという言葉だけでここまでの解釈が浮かんだ。
英語はなるべく解釈を単一にするよう構文が練られ、日本語は曖昧な言語であると誰かが言っていたがまさかここで実感するとは思わなかった。
とりあえずここでは
音楽が好き=音楽を聴く事が好き
と定義しよう、演奏や分析は聞かずには始まらないからだ。
さて、音楽を聴く事が好きという内的属性は外的属性と相関関係にあるのか。
サカナクションのNFパンチで見た目からその人が好きなバンドを当てる、なんていう企画があったがある程度音楽の系統毎に装いのステレオタイプが出来上がるのはまあ間違いないのかなとは思う。
ただ、音楽が好き、というそもそもの行動に外的ステレオタイプはできるのか?
音楽が好きという行動はあまりにも嗜好の方向性としては抽象的すぎる。
音楽が好きであることを証明するための外的属性?なんだろうか、バンドTシャツか?
ここで私は「外的属性を全て服に固定して考えている」という先入観に気がついた。
何も服だけではない、「見ての通り」と言われて参照すべきは顔立ちや佇まいも含まれる。
私は自分の思い込みを恥じながらもう一度画像を覗き込んだ。
?????????????????????
もっとわからなくなっていた。
はっきり、忌憚なく言うと
「大規模なサークルに入り、同じ学部の人間との人脈もちょこちょこ手に入れ、文化祭前後ぐらいに仲間内のふざけあいで髪を金に染めた、飲み過ぎて吐いた経験が5回ほどある私立文系大学生」
という感じだった(あくまでもこれは私の偏見と異常に強い思想がそう判断しているだけで、世間一般ではこのように見られると言っているわけではないし、この条件に合う人間が全て同じ出で立ちをしていると言っているわけでもない)。
音楽が好き…まあうん、好きだろうが…何というか…。
私は曲がりなりにも音楽系のサークル2つに入っている身分の人間なので、音楽が好きだという人間を色々見ている。
が、彼らには全く外見の共通性が見られない(聞いている音楽を絞ると法則が見えることはあるが)以上、音楽が好きである人間を見た目で判別することは不可能だと思っている。
まず、音楽が好きと言っても程度や分野の差がある。これは認識の齟齬を起こす要因でもあるし、もしかしたら今も齟齬をこれが起こしているかもしれない。
「音楽が好きと言われたら納得できるが、積極的に音楽が好きと判断するには早計すぎる」といった外見の人が大半なため、見た目通り音楽が好きという条件を満たす「見た目」とは強力な説得力を持つ外的属性が必要となる。
ただ彼を見たところそうした強力な説得力を持つ外的属性は見当たらない。
となると、彼は理解していて、私は理解していない「音楽が好きだと見た目でわかる要素」が存在していることになる。
俄然彼に質問したくなった、「見た目通り、とは具体的にどこですか?」と。
しかし、そんな質問をこそすれば、私が「厄介な音楽大好き警察」と見なされる事は間違いない。
既に「Aztec Cameraなんか気取ったもの聞く前にOasisとか聞いとけよ」などと言われるキモいスノビズム音楽オタクである以上、身の振り方には死ぬほど気を付けなければいけない事は自覚している。
でも…聞きたい‼︎‼︎
見た目通りの「見た目」がどこなのかはマジで気になる。
本当に、本当に何なんだ、音楽が好きな見た目の条件は何なんだ。
それともそういうコミュニティ内で完結しているのか?
一体…見た目とは…何なんだ…。
オンデマンドの授業を溜めていたら今地獄を見ています、気をつけようね。
現実逃避する為にさっき思いついて他人に共有しようと思ったこれをブログに書いています。
なぜブログなのかというとTwitterが凍結されたからだよ✌️
疑問は尽きない、とても辛い。
またお元気で。
俺が何をしたっていうんだ🐦